社会人が小学校の先生を目指すにあたり知っておきたい基礎知識
社会人になって改めて、小学…
5世紀後半~6世紀前半、古墳時代の中期・後期を生きたとされる第26代の天皇です。当時は天皇号がなかったので、一般的には継体大王と言われています。日本最初の女性天皇であり、聖徳太子の叔母として知られる「推古天皇の祖父」にあたります。
『古事記』『日本書紀』によると、越前(福井県)あるいは近江(滋賀県)から大和(奈良県)に迎えられ、新しい王朝を築いたとされる人物です。
一般的にはあまり知られていない人物ですが、歴史好きの間では謎が多い天皇として知られ、研究対象としても人気があります。
継体天皇については『古事記』『日本書紀』に記述がありますが、異なる記載が多く見られます。
例えば、出身地については明確に記されておらず、『古事記』には近江(滋賀)から上ったとありますし、『日本書紀』では越前(福井)から迎えられたとあります。また、没年をみても、『古事記』では527年(43歳)、『日本書紀』では531年(82歳)とあり、大きく違います。『日本書紀』には即位の経緯や大和に入るまでの事績が詳しく記されていますが、『古事記』には、まったく書かれていません。妃の数なども微妙に異なり、何が本当なのか、確かなことはわかっていません。
それだけ、継体にまつわる情報が混作していたのだと思います。
たとえば、『古事記』『日本書紀』によると、継体天皇は「応神天皇の五世孫」と書かれていますが、両方の書物では系譜で埋まらない部分があります。両書の編纂者は、本当に継体の出自がわからなかったので、書かなかったのだと思います。王族で、正当な王位継承者ならば、編纂者が忖度して完全な系譜を作ればよかったのに、それをせず、不完全なままにしているわけですから、分からないということを、そのまま記したのだと思います。
継体天皇には王族説、地方豪族説など色々あります。継体の前は武烈天皇とされていますが、近畿中枢部には継体よりも血筋的に有力な後継者候補がいたはずです。それにもかかわらず、地方にいる遠い親戚を突然、迎え入れたというのも不可解です。
私は、不完全という点を重視して、王族ではなく、本当は越前や近江を母体とした地方豪族だったのだろうと考えています。他に「上宮記一云」という完全な系譜もありますが、これは『古事記』『日本書紀』の埋まらない部分をもとに、あとから作り上げたと思います。
問題となるのは、武力で王位を無理やり奪ったのか、平和的に迎えられたかですが、これはなかなか難しい問題です。ただ、継体の墓とされる今城塚古墳が大坂の北部にあり、継体の生前に造られたものならば、最初から大和を拠点にしていたとは考えにくいです。ですので、大和などを拠点とする前の王権と、継体の王権はある時期、併存していたのかもしれません。
編纂者によって事実に手を加えられた部分があるというのが、両書物での違いの多さの理由の一つではないかと思っています。
大学時代の恩師であり、考古学者として有名な故・森浩一先生に、継体天皇の研究に宿題を出されたのがきっかけです。森先生は継体天皇の研究にも関心を示され、継体の伝承が多く残る福井で、シンポジウムなどを何回も開催して、学際的な研究をされていました。
私は福井県出身でしたので、福井に就職が決まったとき、森先生に「福井に帰るからには、継体天皇と泰澄和尚の謎をときなさい」と言われました。泰澄和尚については2冊の本を出版したので、何とか約束は果たせたのですが……。継体天皇については、なかなか難しくて、現在進行形でして、いまだに宿題が提出できていない状態です。
継体天皇が『日本書紀』に書かれているような人物ならば、必ずその考古学的な痕跡があると考えています。たとえば、親族の墓とか、自身の子どもの墓とかです。そうなると、古墳という墓から継体を考えるのが1番手っ取り早いです。
現在も、福井を中心にフィールドワークを進めていて、継体天皇にまつわる文献史料の研究もあわせておこなっています。様々な事象を総合的に考えながら、自身の説をまとめています。なかなか新しいことを言うのは難しいですが、考古資料と文献史料の分析を通して、両方の視点からより妥当性の高い説を組み立てていければと考えています。
なかでも注目しているのが、継体天皇の政治拠点とされる地に最も近い、あわら市の横山古墳群とその周辺の古墳群です。横山古墳群は大きな丘陵に造られた北陸最大級の規模で、前方後円墳がたくさん発見されています。
現地調査する中で、新しい前方後円墳や、埴輪なども発見しています。それらが造られた年代を調べ、文献と照らし合わせることで、継体天皇とのつながりを考えています。
横山古墳群を調査する堀先生
例えば、横山古墳群では、古墳時代の後期、480年頃に造られた古墳から、これまでの越前にはない尾張(愛知県)系の埴輪が出土するようになります。越前と尾張の政治的なつながりがうかがえますが、史料と照らし合わせると、ちょうど、継体天皇が尾張の豪族の娘を娶ることで、同盟関係を結んだ時期と一致します。
二本松山古墳は標高273mの山頂にある、墳長110mの前方後円墳です。江戸時代と明治時代に1基ずつ石棺が見つかったと伝えられており、複数の人物が眠る墓とされています。永平寺町教育委員会が平成15年度に発掘調査を実施しており、埴輪などの遺物も出てきています。かなりの高所に造られた珍しい大規模古墳であるため、越前を治める有力者の墓だと見ていますが、不可解な点があります。
まず、石棺は2つ(石棺A・B)ありますが、観察すると、型式差があって時期が異なる埋葬があったと考えられます。実際、石棺Bの方は巨大なもので、型式的に新しく、副葬品や遺骨もあったらしいです。もうひとつの石棺Aには、冠や甲冑など多くの副葬品がおさめられていました。5世紀中頃のものと考えていますが、どうも遺骨がなく、副葬品しかなかったようです。石棺の大きさも小さく、副葬品をおさめると、そのあとに遺体が入りにくくなるので、最初から遺体が入っていなかったと想定されます。
あと、二本松山古墳は発掘調査の結果、古墳の周りに埴輪が並べられていました。埴輪は5世紀末頃のもので、先ほどの石棺Bの副葬品と年代が合いません。また、前方後円墳の真ん中、くびれ部という場所に溝が確認できるので、どうも前方後円墳を造る前に別の古墳があったようです。周りの埴輪と副葬品の時期が異なるのは、古墳の造り替えがおこなわれたからという結論に至りました。
ここまでのことを整理すると、最初に円墳を造って、小型の石棺Aに多くの副葬品をおさめて埋葬したけど、遺体は入っていなかった状態でしたが、何十年後かに前方後円墳に造り替えて、埴輪を樹立して巨大な石棺のなかに遺体を入れて埋葬したという流れになります。
そこで、思い出すのが『日本書紀』における継体の父・彦主人王と母・振媛の記述です。このあたりは『日本書紀』に詳しいですが、彦主人は振媛と結婚し、継体が幼いときに亡くなったとあります。そして、そのあと振媛は、ここでは継体を育てられないからと言って、越前に帰ったとあります。
彦主人が生きた5世紀中頃には、地方豪族が倭国王(のちの天皇のこと)の近くで仕奉するような政治形態が存在していた可能性があります。その前提で話を進めると、彦主人は振媛とともに近畿中枢部にいて、継体が生まれたと考えます。ですが、彦主人は継体が幼いときに亡くなってしまったので、越前に帰ることにしたとも読めます。
そして、彦主人の死については謎ですが、この頃は朝鮮半島が混乱していた時代でした。推測の域は出ませんが、もしかすると朝鮮半島のどこかで戦死したのかもしれません。そのため遺体はなく、遺品だけが残っていた。振媛は幼い継体を連れて越前に帰り、高い山頂に円墳を築き、石棺のなかに彦主人の遺品をおさめて埋めたというものです。あくまでも推測になりますが……。
『日本書紀』の記事によると、57歳に継体は即位しますが、そのあとの振媛のことは書かれていません。本当に継体を育て上げたとすれば、振媛は彦主人より長生きしたと思います。ですが、どの古墳に埋葬されたかも、まったくわかりません。
考古学的にいえるのは、二本松山古墳は巨大な前方後円墳で、新たに造り替えられた古墳だということです。彦主人のあとの越前を治めた有力者(彦主人の兄弟か、継体の兄弟か)が眠っていると思いますが、ただし石棺なので追葬ができます。
『日本書紀』の記事が潤色といったら、それまでなのですが、彦主人の遺品がおさめられた石棺の隣には、もうひとつ巨大な石棺が埋まっていますから、そのなかに振媛が眠っていないものかと考えています。
こうなると、歴史小説になってしまいますね。振媛本人の希望だったのか、継体がそうしたのかはわかりませんが、死後も一緒にいれるように隣に埋葬されていたらいいなという、これは私の希望的観測です。
そう感じてもらえたなら嬉しいです。
継体天皇という研究テーマは、とても私の手には追えないですが、森先生からの宿題を途中で投げ出すわけにもいかないので、がんばってもう少し研究を進めたいと思います。
佛教大学通信教育課程・歴史学部については、下記の記事、webサイトなどもご参照ください。