通信教育クロストーク

2016年02月07日
多様性を生かす

「学部長の手帖から」
社会学部長 近藤 敏夫(こんどう としお)

 他者を尊重し、他者と協働することが大切である。無数の異質な人たちと共に生きることが社会の理想だろう。多様性の確保は生物界だけでなく、人間界にとっても必要不可欠である。

 近年、社会を築く原理として「多様性」が注目されつつある。その端緒は1950年代のアメリカ公民権運動だろう。人種だけでなく、性別、性的指向、障害など、個人が多様な観点からそれぞれ異なることを主張できる時代になった(と思われていた)。公民権運動は「白人の男性で異性愛の健常者であること」が市民であるための暗黙の条件であることに対する反発である。その異議申し立てを「非暴力」という手段で実現しようとしたことに意義がある(と思われていた)。

 しかし、人種の壁は残ったままである。性別、性的指向、障害などは言わずもがなである。人種の壁を測る基準が3つある。1、職場の同僚として働くことができる。2、隣近所で一緒に暮らすことができる。3、結婚することができる。飛び越えるハードルが段々高くなると受け止めるか、社会の壁を段々低くしていくと受け止めるか、ここに大きな違いが出てきそうである。どちらにせよ、第一と第二の壁は超えることができそうである。第三の壁を超えることはまだまだ難しそうである。公民権運動以後も白人と黒人のカップルは人口比率で考えてみると、とても少ない。第三の壁を越えることができれば、人種差別が問題にならない社会に近づくのだが、これは性的マイノリティや障害をもつ人の場合にもあてはまる。

 日本では結婚が個人の選択の問題になりにくい。家族、親族、日本人という集団の規制の問題になる。その壁は高いままである。日本的なやり方に従わないのなら、個人が思いっきり跳躍して高いハードルを越えるしかない。しかし、個人主義的な社会でない限り、結婚後も困難は継続する。当たり前のように壁を乗り越え、当たり前のように生活するためには、壁が低くなければならない。壁を低くするのは当事者ではなく、世間の人々である。これからの社会で多様性を生かすためには、世間の人々の気づきと態度変更が必要になる。これはとてもやっかいな問題である。糠に釘だからとあきらめてはいられない。

 通信大学院入試の面接で、実践に携わっている人の志望動機をお聞きした。現在の仕事に役立つ知識や技能を身に着けるのなら社会学研究科ではないのだが、「百年先に障害をもった人が当たり前に暮らせるような社会を実現するために、種をまくような研究をしたい」とのことであった。

(佛大通信2016年2月号より)

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