通信教育クロストーク

2015年11月20日
文化国家のゆくえ

「学部長の手帖から」
文学部長  野間 正二(のま しょうじ)

 英国には、王室が与える桂冠詩人という称号があり、桂冠詩人は現在も人々の尊敬を広く集めている。一方、日本には、正月には歌会始の儀があり、天皇をはじめとする皇族の和歌が、約二万人の一般国民の応募者から選ばれた一〇人の和歌とともに披露される。英国人の知人にたいして、ひとりの日本人として誇らしい気持ちで説明したのを憶えている。そしてそこが、米国と違うところだと、意気投合した。

 ところが、最近の文科省の動きは、どうも変だ。昨年には、文科省の周辺から「シェイクスピアの代わり観光に役立つ英語を」という極論がもれ出てきた。本年の六月には、文科省は国立大学の人文系の学部に「地域に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換」を求めたのだ。

 しかし、あまりにも性急に役立つことを求めると、それは経済的な即戦力を求めることになる。お金儲け一辺倒の考え方にいたる。そうなると、世の中の価値基準が儲かるか儲からないかの単線になる。和歌をたしなむことも役に立たない無駄なことになる。儲けることができない人間は、役立たない人間で、地域から必要とされない人間となる。地域に居場所が無くなるのだ。

 しかし地域には、「金儲けがなんぼのもんじゃ」と公言する人も、「わけの分からん」人も、「かなわんなぁ」という人も暮らせるスペースがあるべきだ。複数の価値基準が並立する社会であるべきなのだ。そんな社会の方が、結局、人にとっては住みやすい社会だ。そして複数の価値基準をはぐくむ最も有効な手段は、文学を楽しむことだ。

 なぜなら文学は、考えられる限りの多様な生き方をする人や、多様な価値観をもつ人を描いているからだ。人が生きる価値は、お金の量で決まるものではない。杜会に必要とされる度合いで決まるものでもない。社会にとって直接役立たないような人でも、その人の存在そのものが、そのコミュニティを豊かにする場合がある。そんなことを教えてくれるのが文学だからだ。

 天皇が人びとに崇敬される大きな理由のひとつは、天皇は政治的な権力を持たないが、日本の文化の粋を象徴していると信じられているからである。日本人はそれほど文化にふかい敬愛の念をもってきた。しかし最近の文科省の動きは、日本人のそういう特性に逆行している。しかも私は、文科省がある日突然「地域に必要とされる人材」を、「国家に必要とされる人材」に変更するのではないかと恐れている。もちろん杞憂であることを心底願っているが。

(佛大通信2015年11月号より)

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