通信教育クロストーク

2017年10月16日
「動く」不思議に新鮮な驚き。映画の原理を体感

KYOTO TIME TRAVEL
伝統をつなぐ・未来をつくる・京都をめぐる

「碁盤の目」と呼ばれる京都には珍しい、街を斜めに走る「後院通」。
千本三条から四条大宮に続く、この通りを入ってすぐの町家におもちゃ映画ミュージアム(京都映画芸術文化研究所)はある。耳慣れない「おもちゃ映画」とは?代表理事の太田米男さんに、歴史学科の李昇燁先生が伺った。

 

太田 米男(おおた よねお)
1949年、京都生まれ。大阪芸術大学映像学科教授。おもちゃ映画ミュージアム(京都映画芸術文化研究所)代表理事。京都市立芸術大学在学中よりシナリオライター依田義賢氏に師事。おもちゃ映画復元プロジェクトを立ち上げるなど、映画芸術・文化の向上に努める。

李 昇燁(イ スンヨプ)
歴史学部歴史学科准教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。京都大学人文科学研究所・助教、ハーバード・イェンチン研究所・客員研究員を経て現職。朝鮮半島の近現代史、特に日本の植民地支配の時期を中心に研究。著書・論文に『倉富勇三郎日記』(共著、国書刊行会、2010年)、「李太王(高宗)毒殺説の検討」(『二十世紀研究』第10号、2009年)など多数。

大阪芸術大学映像学科の創設と同時に映像教育にたずさわり、京都の撮影所で映画の撮影現場も熟知する太田さん。おもちゃ映画ミュージアムを開設した理由とは。

「おもちゃ映写機」を発見

李:大阪芸術大学は、関西では早くに映像学科ができたのですか。

太田:ええ、一番早いと思います。それ以前には、日本大学に映画学科があったぐらいです。1970年に大阪万博があって、大学の中に映像学科を作りたいという動きになったのです。

李:太田先生も、大学時代に映画の勉強をなさったのですか。

太田:私は京都芸大でしたが、学生紛争の頃で、美大と音大が合併して芸術大学にする動きがありました。大学側が学生の意見を聞き、希望のコースがあれば提案できることになったので企画書を出して、それで映像のゼミができたのですよ。そこにシナリオライターの依田義賢先生が指導に来てくださいました。すぐに依田先生が大阪芸大に呼ばれて、僕たちもいなくなると写真が中心になって、映画を学ぶ人はいなくなりました。

李:映像を学ぶには機材も必要ですし、簡単ではないでしょうね。

太田:最初は16mmカメラが1台しかなくて、依田先生も非常にお困りでした。仕方なく8mmで映画を作ったのですが、70年代半ばになって関西のテレビ局が、フィルムからビデオで撮るようになったので、処分する30数台のカメラを学校が購入するなどして、フィルム機材を揃えていきました。

李:ここのミュージアムの展示品は、どうやって集めてきたのですか。

太田:大阪の制作プロダクションの廃業時に引き取ったものや、ミュージアムを作るので集めたものもあります。今もほとんどのカメラや映写機は使えますよ。最初は、大阪芸大で映画前史の講義をするときに、学生に言葉で説明してもなかなか実感できないから、実際に見せるために集めはじめたのです。デジタル化してでき上がった映像しか見る機会がなくなってきていて、原理もわからなくなっているのですね。

李:それが、ミュージアムを作ろうということになったのは、どういう理由からですか。

太田:20年前ぐらいに京都の映画祭で映画の復元をしたときに、日本の無声映画がほとんど残っていない、95%以上が失われているのに気づきました。その中で、家庭用に切り売りされた「おもちゃ映画」と呼ばれる短い断片が残っていることがわかったので、それらを発掘し復元保存するプロジェクトを大学で立ち上げました。映画ができてから50年ぐらいは無声映画でしたが、その後トーキーができて劇場で上映されなくなり、いらないということで切り刻んで売ることになったんですね。1920年代から40年代ぐらいに、お金持ちの家庭には「おもちゃ映写機」と呼ばれる映写機があって、そのフィルムを家で見て楽しんだのです。フィルムや映写機は骨董市やネットオークションで集めました。京都市にミュージアムを作ってほしいと提案したのですが、予算がないということで、自分たちで作ることにしたわけです。

ミュージアムの名前にもなっている『おもちゃ映画』。大正から昭和の初めにかけて、家庭で楽しんだ映像のことなのだが、今そのことを知る人は少ない。

ニュース映像やアニメをPCで閲覧

李:おもちゃ映画のことは、恥ずかしいのですが私も知りませんでした。ミュージアムに展示しようと思ったのは、どうしてですか。

太田:映画には120年の歴史があるので、こんな小さな空間では映画のすべてを見せることができません。それで映画初期に特化して、家庭向けに販売されたおもちゃ映写機を展示することにしました。でも、研究する人はほとんどいなくて。なぜかというと、リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフ(映画)とは、スクリーンに映った映像のことなんですね。その映像に興味をもつ人は多いのですが、どんなカメラで撮影したのか、どんな状況で上映されたのかについてはあまり研究されていないのですよ。本当は、写真の歴史があって、幻灯機や光学技術などが一つになって映画が成立したわけです。そんな映画の歴史も知ってもらい、おもちゃ映画の映像もパソコン画面で見てもらえるようにしているんです。

李:珍しい映像もあるのでしょうね。

太田:大半が30秒ぐらいですが、大変貴重なものもあります。日本統治時代の朝鮮半島の映像もありますよ。新聞社が撮影したニュース映像です。(モニターに映像を映し出して)、これは京城大学ですね。李:朝鮮銀行と南大門が映っていますね。鳥居があって朝鮮神宮が見えるので20年代の終わり以降でしょうか。動いている映像は初めて見ました。もっと後の40年代の映像は見たことがありますが。

太田:ここにあるのは、30年代前半のものが多いですね。

李:中央郵便局ですね。今はもうないです。

空撮のようですね。

太田:ええ、飛行機での撮影です。ニュース映像の他にも、時代劇や外国の動画もあります。8年間、大学のプロジェクトで少しずつ復元して800本。おもちゃ映画の中には、チャンバラシーンのフィルムが残っています。動きがある映像を家庭で楽しんだのでしょうね。

「おもちゃ映画ミュージアム」は、一般社団法人京都映画芸術文化研究所として登記され、研究発表の場にもなっている。過去の映像を研究し、伝えていくことの意味とは。

❖19世紀に発明された映画が今に伝えるもの

李:開館してからまだ2年ですが、どんな場にしていきたいですか。

太田:何かに特化していると関心をもってもらいやすいと思ったので「おもちゃ映画ミュージアム」と名付けたのですが、「京都映画芸術文化研究所」の名称で登記したので、映画のことを研究している人にも利用していただきたいですね。特に私は大学にいますから、予算がない研究者は評価されることがなかなか難しいのを知っているし、学生も大学を卒業したら機材の問題で、映画を制作しづらくなるので、何らかの形で応援できる場であればと思いました。

李:原始的な手回しの動画装置なども、自分で触ってみれば、動画の原理がひと目でわかるし、学生に来てほしいですね。

太田:そうですね。日本って、わりと新しいものばかりを追いかけて、過去のものをあまり見ないでしょう。おもちゃ映画も過去のものにせずにフィルムで残そうと伝えているのですが。欧米では、映画の保存に熱心です。アメリカでは1988年に法律で決めて、年間25本のフィルムを文化財として残すことを定め、すでに国の財産として600本ぐらいを残しているのですが、日本はまだ3本だけ。文化財になるのは、100年経たないといけないですからね。

李:100年待っていたら、無くなってしまいますよね。

太田:そうですよね。去年は小津安二郎監督の映画『突貫小僧』が見つかりましたが、黒澤明監督や溝口健二監督、小津監督の作品は古典映画の国の財産としてきちんと残していかなくてはならないと思います。

李:本当にそうですね。今日は、貴重なものをいろいろ見せていただき、ありがとうございました。

(佛大通信2017年8月号より)

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