社会人が小学校の先生を目指すにあたり知っておきたい基礎知識
社会人になって改めて、小学…
「研究室訪問」
社会学部 公共政策学科 准教授 堀江 典子(ほりえ のりこ)
日本の原風景を残す飛鳥の公園から始まった私の都市環境研究
2014 年に本学に着任したのですが、現在に至るまでの道のりは、少し長かったのではないかと思います。
私は関東の出身で大学では環境緑地学を専攻していました。卒業後に建設省の外郭団体に入り、最初に勤務したのが奈良の国営飛鳥歴史公園でした。歴史を知らなければ何ということのない田舎の風景が広がっているとしか見えない場所ですが、素朴な風景の下には古代のすごい遺跡が眠っている。もっと知りたいと『万葉集』や『日本書記』を読み耽りました。読むほどに、当時の世界が見えてくる…。この風景と出会えたのも、歴史的風土の価値を理解した人たちが保存活動をされたことで明日香村特別措置法が1980年にでき、乱開発されずに守られていたからです。改めて制度の重要性を痛感しました。私にとって第二の故郷と言える場所です。
その後、東京の財団に戻り「全国緑化フェア」や「緑の都市賞」の立ち上げに携わった後、夫の仕事の都合で、ケニアのナイロビで暮らしました。そこでスラムの女性たちの生活を知ります。彼女たちが手芸で現金を得て自立できるよう支援するボランティア活動に通ううちに、高級住宅地と違い、スラムには花や緑がないことに気づき、それが生活環境の格差を象徴していると感じました。帰国した日本はバブルの真っただ中。違和感を払拭できず、これらの経験が、都市環境の研究へと向かう大きなエネルギーになりました。
卒論研究の暑い思い出と40代で大学院に通った「わたしの学び」
大学の学部時代の卒業論文では、当時の横浜市の湾岸地域で一般市民がどれだけ海に接近できるかを調べました。太陽が照りつける夏の最中にミニバイクで何日もかけて、土地利用と海岸線への立ち入りの可否との関係を調査したのです。国土地理院にも、過去の海岸線や土地利用がわかる古い地図を調べに何度も足を運びました。時間も体力も使いましたが、頑張った分、納得でききるデータが収集できました。最近、横浜市の海釣り施設や八景島などの指定管理者選定委員を務める機会があり、久しぶりに現地にも出向き、その頃を懐かしく思いました。
40代になって、受験を控えた長男が勉強もせずにゲームしているのに腹を立て「じゃあ、私が学費を使おう」と大学院へ。指導教官に「その歳で始めるなら、博士号まで頑張りなさい」と言われてその気になりました。ただ、大学院までは片道2時間以上。夫が単身赴任する中、両親の入院もあり、障壁も大きかったのですが、その頃の学びはとにかく楽しかったんです。論文を書くのも苦にならず、学会発表もキツイけれど新鮮でした。
歳を重ねたからこその経験や気づきがベースにあったから、夢中で学べたし、自分の考えを論文の中で表現できることが楽しかったのだと思います。
すべての経験は学びの糧、自分流のスタイルで積極的に学びましょう
学び方は人それぞれだと思いますが、私は「ながら族」かもしれません。テレビを横目に見ながら、街を歩きながら、山や海で遊んで自然を満喫しながら研究テーマについて考えたりヒントを探したりすることもあります。時間が無ければないなりに学び方はあると思います。通勤や通学時間が長ければ、その時間で読書や書き物の推敲ができます。お風呂の中や台所で思いついたアイデアが、課題解決の糸口になることもあるのではないでしょうか。私が40代に大学院で学んだことは、経験したことのすべては無駄ではなく、研究や学びに結びついていくということです。
今の研究の中心は、都市が抱える諸問題解決のための「都市施設の博物館的機能」や「緑地の機能と供給」ですが、並行してさまざまな活動にも参加して見聞を広めたり、現場の情報に関心を持つようにしています。ユニバーサルミュージアム研究会で視覚障害の方々と活動したり、自治体等の外部委員なども務めています。本学のある京都では、下京区の下木屋町をフィールドに、アーティストや地域の人たちと実行委員会を結成し、「高瀬川ききみる新聞」を発行して高瀬川を中心とした地域の歴史や記憶を発信したり、イベントで川床を設置して高瀬川に親しむきっかけづくりなどに取り組んでいます。
学びには無駄は何一つありません。皆さんもこれまでの経験を生かして課題に取り組んでください。
経歴
千葉大学園芸学部環境緑地学科卒業
東京都立大学大学院都市科学研究科博士課程修了、博士(都市科学)
東京都都市計画審議会委員、名古屋市緑の審議会委員、練馬区緑化委員会会長、他。
(佛大通信2016年1月号より)