通信教育クロストーク

2017年09月22日
BUまなび隊inOSAKA Vol.2誌上講義 

佛教大学シンポジウムが、2017年1月28日、大阪市中央公会堂にて開催されました。第2部のパネルディスカッションでは、明治大学文学部・齋藤孝教授、佛教大学・田中典彦学長、読売新聞東京本社専門委員・松本美奈氏に、「教育と未来」をテーマに、活発な議論を交わしていただきました。その内容を2回に分けてお届けします。

シンポジウム「教育と未来」 パネルディスカッション01
生きる力を未来へ託せるか

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学ぶことの意味とは?

毛利:これからの時間は「教育の現状と課題」、「予測できない未来を生き抜いていく力とは」。さらに「生きる力を未来に託すために、今どのような教育が実際に求められているか」、この3つのテーマで意見をいただきたいと思います。田中学長は「教育の現状と課題」について、どう考えておられますか。課題があるとすればどんな点ですか。

田中:高等学校までの教育と大学の教育の相違について。1年生の諸君には学長枠の講義でお話ししています。高等学校までは、共通に持たれている知識を養うため、みんな一緒の教育を受けます。けれども大学はみんな違って良い教育。これからは一人ひとりが自分の生きる道を見出していくのです、と話します。大変だなと感じているのは、自分の想いを的確に、意味のある言葉で示すことができる、正式な日本語が足りない学生さんが多いことです。人の頭の中には役に立つ知識から役立たない知識までが、言葉で詰まっています。知識とは言葉で保たれている。言葉で持てない知識は、知識とは言えない。したがって、本学では日本語教育をカリキュラムの中心に据える改革を進めているところです。

毛利:大学でも日本語の教育が必要とされている昨今、読売新聞社では2008年より大学の実力調査を行っておられます。全国の大学がどのような教育向上の努力をされているか、調査から見えてきた大学教育を取り巻く環境について教えてください。

松本:昭和40年に作られた偏差値は、ある一定のテストを受けた人の位置を示すものです。かつてはこれが主でした。今は、一般入試と言われる筆記試験、AO入試、指定校推薦、公募制推薦、いろいろあります。そのなかで偏差値が通用するのは、一般入試のごく一部だけ。ですから、実は偏差値で大学を選ぶのはナンセンス。使えない古い物差しを捨てて、自分の頭で考えよう。それが伝えたくてこの調査を始めました。私は、「学ぶ」の中心は「問う」だと思います。アクティブラーニングとは、自ら問い、学ぶこと。でも、今の学生は書かない、質問しない。「質問ないですか」と聞かれ、学生が手をあげて、発言する授業を、この10年以上見たことがありません。日本の大学もよりおかしな方向に流れていて、学部名称は700種類以上あります。これは先進国では日本だけ。私は相当性格が悪いので、「○○学部は、何をやるところですか?」と聞きに行く。すると、担当の方がとても嫌な顔をする。大学の職員も説明できない、キャッチーな学部名称で引き付け、オープンキャンパスで無料の食事と、普段は絶対来ないバスを出して引きずり込み、何も教育しないで放置する。教育よりも、経営の方が大事ではないかという大学もちらほら。頭が痛くなります。

毛利:齋藤先生、なぜこのようになったのでしょうか?

齋藤:日本語の問題ですが、話している日本語をきちんとした文章にするのは凄く疲れるけれども、文章にまとめると考えていることがはっきりします。ですから、私は全授業でレジュメを用意してもらい、それを元に全員が発表する方式を取っています。聞いているだけというのはあり得ない。レジュメは全体の構造をとらえないと作れないので、良い訓練になります。偏差値も問題ですが、大学にはランクがあります。例えば、就職活動時に、明らかに大学名で就職の率が違うのですね。だから、有名大学に行きたくなる。学生に就職説明会の案内状が来る大学と来ない大学があれば、募集すらされない大学もある。そこを抜きに大学の格みたいなものを無くすこと自体が難しいのです。社会的に力を持ってしまっているのかなとも思っています。本来は、これだけの少子化ですから一人ひとりをよく見て、教育していく時代だと思いますけどね。

松本:あの大学には、当社の会社案内は送らないと言っていた一流企業が、その後どうなったか。かつて、銀行や大企業は潰れないと言われていましたが、とんでもない名前の銀行ができたり、大企業が身売りや分社化など。これが何を意味するか。偏差値で学生を選ぶ、大学名で採用の可否を決める、自分たちの頭を使わなかった企業の末路だと私は思います。自分の頭を使わない所は潰れます。

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求められる力とは

毛利:2020年には大学入試が変わり、教育も変わると言われています。将来、子どもたちは、今は存在しない職業に就くのではないかとも言われています。人工知能などが多くの分野に進出し始めているなか、子どもたちが未来を生き抜くにはどんな力が必要なのでしょうか?

田中:将来の子どもたちが今は存在しない職業に就くことを、大変革時代と言うそうです。けれども、例えばICT化されて、我々の生活の一部がロボットで補われることがあったとしても、生きているのは人間。人間の生きていることを抜きにしては、教育も何も語れない。基本的にはそれを忘れてはなりません。大学は、生活力を身につけるところです。仏教でいう“生活”とは、朝起きて、顔を洗う、ご飯を食べるではありません。書いて字のごとく「生きていることを活かすこと」。私が生きていることを、満足感を受け取りながら活かし、生きていくこと。

 高等学校で学んだ知識、さらに大学で専門的に学んだ知識を、どう生きる力に転換していくか。マザー・テレサが語り、多くの人が座右の銘にしている、インド思想の言葉があります。「思いが言葉となり、言葉が思考となり、思考がアイデアを産み、アイデアが行動に移される。その行動によってあなたの人格が形成されていく」と。大学は、言葉から思考、アイデアを鍛えるところ。しっかりと日本語で考え、それを言葉や行動として表して価値化すること。価値の世界へ自分をどう表すかというトレーニングの場所だと考えます。

松本:私自身は「問う力」「質問力」が最も大事だと思っています。質問するためには知識が必要ですが、まず書く力がないと質問ができない。今はノートをとらない学生が多い。パソコンで打ち込む。または、スマホでパシャ。この人は何を言っているのかをペンでメモを取るためには、大切なキーワードを抽出しながら、立ち止まって考えながら書かねばなりません。

 「東ロボ君プロジェクト」という、人工知能を学習させて東大に合格させるという、社会的にも認知科学的にも全く無意味なプロジェクトが5年間も続けられました。でも、その中で、東ロボ君は面白いことをいっぱい教えてくれた。人工知能には読解力、問う力、文脈をつかむ力がない。図と文章を関連付けて考えることができない。例えば「二等辺三角形の底角が等しいことを証明せよ」と問われた時、人間だったら補助線を引くことを考えますが、人工知能にはできない。キーワードの抽出は人間にしかできないのです。

毛利:真のアクティブラーニングとは何なのでしょう?

齋藤:昭和時代の小学校では、模造紙にいろんなことを書いて発表するとか、社会科の体験とか、様々なことを積極的かつ主体的にやる、そういう伝統的に学習環境を作っていました。横文字でアクティブラーニングと言うと新しく聞こえますが、日本の小学校はずっと頑張ってやってきた。タブレットを使ってグループディスカッションするからアクティブなのではありません。ただおしゃべりしているだけのケースも多く、そうすると一斉授業よりも、効果が上がらないこともあります。

 アクティブラーニングで学習環境をつくる難しさは、先生による一層の準備とリーダーシップが求められる点。場をコントロールするだけの総合的な人間力がないと、活気ある空間は維持できません。ただ、だらけた空間、タブレットをいじるだけの時間になる危険性があるのです。より効果があるように、指示を的確に出し、刻一刻の学習の状況をつかむこと。でなければ、意味のないディスカッションになってしまいます。

 先ほど、田中先生が言われた、思考とアイデアの実行にも、新しい学びでは積極的に取り組まねばなりません。そのためには問題の本質を見抜く力が必要です。この問題の本質は何か。そこに杭を打つアイデアは何か。具体的かつ本質的なアイデアを価値に結び付けることが新しい学力。問題について当事者意識を持ち、本質を見極めてアイデアを出すという練習をして慣れていく。そこも技。練習で身に付く能力だと思います。

田中:私は、あまりアクティブラーニングを定義づけない方が良いのではと思います。ピコ太郎さんみたいに、単語をどんどん変えていったら英語教育になるのでは。半分遊びだけど、アクティブは遊びを含む方が…。私の思いなのですけどね。

齋藤:英語の学習でも、デートのシチュエーションでやってもらうと、急に言葉が出るのですね。アクティブでもあるし、プレイ的でもある。そういう意味では、当事者になって遊ぶ、楽しむ。ワクワクできる要素は、主体的な学習には重要です。

(佛大通信2017年7月号より)

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