社会人が小学校の先生を目指すにあたり知っておきたい基礎知識
社会人になって改めて、小学…
「研究室訪問」
教育学部 教育学科 教授 吉川 明守(よしかわ あきもり)
自分探しをしていた大学時代、先輩の熱心な勧めで進んだ整肢療護園の児童指導員への道
私は戦後がまだ色濃く残る時代に育ち、学校には戦災孤児や母子家庭の子どもが珍しくありませんでした。また、福祉の制度も十分ではなく、世の中の矛盾を感じていました。高校生の頃、当時の養護施設の児童指導員の先生に感化され、福祉系の大学に進みました。1960年代の大学はタテ看板が並び、学生運動が真っ盛りでした。学問を学ぶというよりも、学生は皆「自分探し」をしていたように思います。
大学寮の先輩に熱心に勧められ「肢体不自由児の父」として名高い高木憲次先生が創設された整肢療護園に就職しました。ここで実際に障害のある子どもたちと向き合ったことが私の人生の分岐点であり、現在の仕事に就く始まりでもありました。
大学の卒業論文は「養護施設の現状と課題」というテーマで、入所児の退所後の実態から、養護施設の課題と展望を考察したものでした。当時、学力があっても進学は保障されず、多くは中学校卒業と同時に住込みで就職していました。それだけに、離職するとそく収入も住む場所も失い、生活困窮者となっていました。このような現状になる根本原因は、児童福祉法に基づく「児童福祉施設最低基準」等にみられた「養護は劣等処遇でよい」とする施設観・児童観にあることや退所者の貧困は世代間連鎖のリスクが大であることを指摘したものでした。論文指導をいただいた植山つる先生と国立久里浜養護学校の就職をお世話してくださった初代国立特殊総合研究所長辻村泰男先生とが児童福祉法の草案づくりに関わっていたとはつゆ知らず、のちに大変驚きました。
養護学校教育の変革期に実践を通して学んだ特別支援教育の在り方と方向性
私は1977年に植山先生方とのご縁により国立久里浜養護学校の教諭になりました。この学校の目的は、国が1979年の養護学校教育の義務制実施に向けて、当時、就学が困難とされていた重度重複障害児の教育方法の開発を行うことでした。
学校では、全国から就学の猶予・免除となっていた重度重複障害のある幼児児童が、寄宿舎を活用して在籍していました。運営は方針に「舎学一体」を掲げ、寄宿舎指導員も教諭もともに力を合わせ、24時間体制で養護と教育に当たりました。このことは、入学してきた子どもたちを目の当たりにして、これまでの学習指導要領等の内容では対応できず、「歩くこと」「食べること」「排泄すること」などが教育の重要な柱になると考えた結果だからです。夜間や土日祝日にも交代で勤務し、体力的に厳しいものがありましたが、それを可能としたのは強い使命感と教師の熱意であったように思います。熱い血潮が生み出す大きなエネルギーは、大きな変革期のそこに携わる人たちには不思議と生まれてくるようです。
現在、我が国の教育界は、学制発布、養護学校教育の義務制実施に次いで3度目の大変革期に入っています。すなわちインクルーシブ教育(「障害の有無や障害種・程度の違い」等で分離しない包括的教育)の実現に向けた改革が進められている事です。しかし、この改革はまだまだ理念が先行していて実現に向けての制度改革や方法開発は、その端緒についたばかりです。教育界を目指す学生諸君においては、これほどやりがいのある時期はないように思います。
特別支援教育の基本、それは、子どもたちに寄り添い相互輔生の関係を目指すこと
障害の重い子どもたちを相手にしたとき、精一杯の力で対応したとしても効果があがらないことがあり、教師は戸惑い悩みます。このような状態が長く続くと、時としてその原因を子どもの「重い障害」にあるとの考えがよぎりがちです。「子どもの可能性に下限はない」を合言葉に義務制実施に取り組んできた歴史を振り返ると、原因は教師の力不足のなにものでもないことは明らかです。はたして、日々状態が大きく変化している障害の重い子どもたちに「寄り添い」続けながら、的確なニーズ把握の努力をしていただろうか、一つの教育方法に固執してはいなかっただろうか。これらを念頭に見直し作業を行うことが大切です。私の研究も一つの教育方法にこだわっていないのもこのような考えの影響です。教師の努力が実ったとき、子どもの課題解決だけでなく、教師の戸惑いや悩みもなくなります。つまり教師もまた救われます。これを尊敬する梅津八三先生は「相互輔生」と表現しています。
[経歴]
1950年、石川県加賀市に生まれる。
筑波大学教育研究科修士課程修了。
日本肢体不自由児協会整肢療護園児童指導員、国立久里浜養護学校教諭(1994年4月~1998年3月まで附属武蔵野教育施設長を併任)、筑波大学附属久里浜養護学校教諭、新潟青陵大学短期大学部幼児教育学科教授(2009年4月~2015年3月まで幼児教育学科長を併任)を経て、2015年4月から現職。
この間、2004年9月~2015年3月筑波大学教育開発国際協力研究センターの学内及び学外共同研究員を兼任する。
(佛大通信2016年10月号より)