通信教育クロストーク

2016年07月15日
墨子

「学部長の手帖から」
文学部長 鵜飼 光昌(うかい みつあき)

 ベストセラー『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(ともに平凡社)の作者、半藤一利氏が、中国・諸子百家に関する本を書かれた。『墨子よみがえる』(平凡社新書)がそれである。本の帯には、「先生、ボクシってなんですかッ!?」「日本を再建し、世界を平和にする近道、これじゃよ――」とある。
 氏は、あとがきに「いま、日本国は、未曽有の困難なときに遭遇しています。(中略)注意しなければならぬのは、これからの長く頼りない迷走と全体的な無力感と不安感のつづくなかで、国民のこころのうちに醸成されてくるのは力への誘惑である、ということです。(中略)そのときにこそ、墨子です」と記している。迷走と不安の時代にこそ、平和を希求する墨子は読まれるべきだという。
 その中心の思想は「兼愛」(博愛)と「非攻」である。あとの方の「非攻」は、他人や他国への「攻」撃を「非」とするという意味である。
 墨子は言う。もし人の果樹園の桃やスモモを盗んだなら、窃盗の罪にとわれるだろう。犬や豚や鶏を盗んだらその罪は重くなる。馬や牛を盗んだら、重罪である。さらに人を殺めてその人の物を盗んだら、その罪は死罪に相当する。もし人を一人殺めたら、その罪は一つの死罪に相当する。十人の人を殺めたなら、その罪は十の死罪に相当する。それなのに他国を侵略し、戦争になったときのみ、百人よりも千人、千人よりも万人を殺害した者に、より多くの恩賞があたえられるのはなぜか(非攻篇)、と。
 同じ行為が、平時には罪にとわれ、戦時には褒められる。それでよいのかというこの墨子の問いに答えることは、現代においても実はできていないのである。
 さらに墨子は言う。いま国と国とが互いに攻めあい、家と家とが互いに奪いあい、人と人とが傷つけあっており、君臣の間に恩恵と忠義がなく、父子の間に慈愛と孝行がなく、兄弟が互いにむつまじくしないこと、これが天下の害にほかならない。(中略)それは、たがいに愛しあわぬところから生ずるのである。(中略)それには、兼ねて相愛し、交ごも相利する道をもって、これに代えるがよい(兼愛篇)(森三樹三郎訳『墨子』ちくま学芸文庫、2012年)、と。
 半藤氏が「これじゃよ」とご隠居よろしくすすめられる墨子のすばらしさがここにある。単純で、力強く、どこまでも正しい。真剣に聴くべき中国古代の哲人のことばである。(がしかし実行はまことに容易ではない。)大阪大学ののち佛教大学で教鞭をとられた森三樹三郎先生の、ちくま学芸文庫の名訳(解説は大阪大学湯浅邦弘教授)で『墨子』を読みたい。

(佛大通信2016年7月号より)

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