通信教育クロストーク

2018年11月14日
125年の伝統が新しい時代の扉を開くとき。

KYOTO TIME TRAVEL
伝統をつなぐ・未来をつくる・京都をめぐる

京都は丹後・宮津。のどかな入江の近くに飯尾醸造はある。創業は明治26年。「日本一の酢を造りたい」との思いから「富士酢」と名付けられた商品は、いまや全国にファンを持つ。今回は飯尾醸造4代目当主の飯尾毅さんのもとを歴史文化学科の斉藤利彦先生が訪ねた。

飯尾醸造
1893(明治26)年、天橋立で有名な京都府宮津に創業。当時からの看板商品は「純米富士酢」。酒蔵で麹を作り、純米酒を醸した後、約100日をかけて発酵させ、さらに1年ねかせて柔らかな風味とまろやかな味わいの酢に。昭和30年代、3代目当主輝之助氏が無農薬栽培の米を原料とした新しい「富士酢」を生み出す。現在、4代目当主で会長の毅氏と5代目当主で社長の彰浩氏が、その伝統を受け継ぐ。

飯尾 毅(いいお つよし)
株式会社飯尾醸造4代目当主。同志社大学文学部卒業後、信用金庫に就職。その後、飯尾醸造場(現 飯尾醸造)に入社。同社の酢の原材料である米を無農薬栽培する契約農家に、新しい農法を提案したり、機材や資材を会社で購入し農家に無償で譲渡するなど、労力軽減や生活安定のために尽力。2003(平成15)年、棚田の景観を守るため社員による米づくりもスタート。社員とともに毎朝「紅芋酢」を飲み、体にいいことを自ら証明している。

斉藤 利彦(さいとう としひこ)
歴史学部歴史文化学科准教授。
佛教大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。研究テーマは、近世上方歌舞伎の歴史的研究、近現代上方歌舞伎の伝承に関する研究、京都の民俗芸能の歴史的研究。日本文化史の立場から、日本の芸能の歴史について研究し、特に上方歌舞伎の歴史的研究を、「興行」という視点から考察している。主な著書に『近世上方歌舞伎と堺』など。

飯尾醸造の酢は、地元丹後の無農薬米から自社で酒を造り、その酒を酢酸発酵・熟成させて初めて完成する。それほど手間ひまをかけた製法と品質にこだわる理由とは?

日本で唯一、酒蔵を持つ醸造所

斉藤:飯尾醸造さんが酢を造るようになったのは、いまから125 年も前のことだそうですね。飯尾:はい、すぐ近くに酒屋があったので競合しないように、いったん酒を造ってから発酵させる酢を造り始めたと聞いています。戦中戦後は物資が乏しく、米から酢を造ることは禁止されていました。その頃の日本では、石灰石からカーバイドを作ってアセトアルデヒドを生成して作る合成酢が8~9割だったようです。台湾を統治した時代に、サトウキビの残渣を原料に醸造アルコールをたくさん作れるようになって、醸造アルコールを原料とした酢造りが一般的になっていきました。

斉藤:そうなんですね。さっきから気になっていたのですが、ここに「陸軍海軍御用達」と書かれた看板がありますが。

飯尾:福知山に陸軍、舞鶴に海軍があって、うちはそこの納入業者だったのです。そのおかげで、米が手に入らない時代に、海水をかぶった米を海軍から分けてもらったこともあったようです。近所の人にも手伝ってもらって米を洗って海水の塩分を取り除き、その人たちにはお礼で米を渡したりして、酢造りをしていた時代もありました。昭和29年に再び米で酢を造れるようになりますが、その頃、米づくりに毒性の強い農薬が使われるようになるんです。田んぼからフナやドジョウが減り、それを見た父が将来を案じて、「上宮津」という地区の棚田を持つ10軒の農家を2年がかりで説得して、無農薬栽培の米を作ってもらえるようになったのが昭和39年のことです。

その後、飯尾醸造のために無農薬の米を作ってくれていた農家は27軒に増えた時期もあったが、徐々に後継者問題に直面する。このままでは棚田の美しい景観が失われてしまう。そこで、飯尾さんが考えたのは……。

全国から「富士酢」ファンが集まって米づくり

斉藤:いまのように社員の人たちが米づくりまでするようになったきっかけは何だったのですか。

飯尾:平成15年に契約農家の8軒が米づくりをやめることになったので、うちがその田んぼを借りて米を作ることにしたのです。田んぼは40枚で、とてもうちの社員だけではできません。それで、ネット販売のお客様にボランティアをお願いしたところ、いまでは春と秋にそれぞれ100名以上の人が手伝いに来てくれています。その半分は関東からで、交通費や宿泊費も自己負担。田植えは無農薬栽培のために鳥取大学農学部の津野幸人教授が開発した再生紙を敷きながらなので、手間がかかるんですよ。山の上なので車も入らず、稲刈りしても、道路までは距離があって手で運ばなくてはいけないので労力がかかります。

斉藤:契約農家の方もたいへんですね。

飯尾:別の地区では小さい田んぼが1500枚あったのですが、これを圃場整備で150枚にして1枚あたりが広くなったので、6条用の田植え機が入るようになりました。それで再生紙を敷きながら田植えできる機械を、津野先生と鳥取県の農業試験場、農機メーカーで共同開発。私たちが3台購入して、無農薬生産組合に寄付して農家に順番に使ってもらえるようにしています。まだ、手で植えたり、手で刈ったりしなければならない田んぼもありますが。

斉藤:美味しいお米が採れるんでしょうね。

飯尾:はい、10年ぐらい前に東京の百貨店に出店している米屋さんに、うちの「コシヒカリ」の食味を調べてもらったら、扱っている約2000の中で3番目でした。うちが使っている米は「コシヒカリ」が8割、酒米の「五百万石」が2割です。以前は、醸造蔵で酒も造っていましたが、手狭になったので、いまは車で10分のところの廃業された酒蔵を買って、精米から麹づくり、酒造りまで一貫してそちらで行っています。

斉藤:お酢屋さんなのに酒蔵を持っているんですね。

飯尾:えぇ、京都の酒蔵でも自社で精米しているところは数社しかないそうです。杜氏も、以前は温泉町から来てもらっていましたが、いまはその杜氏と6年間一緒に作業をして、その後、研修で酒造りの勉強をした社員がいます。彼がとてもいい酒を造ってくれるようになりました。

斉藤:それは美味しいでしょうね。

飯尾:えぇ、ものすごく美味しいですよ。でも、うちは酒ではなくて酢の原料「酢もともろみ」の免許しかありませんから、酒として飲んだり売ったりすることができないのですよ。

現在の飯尾醸造は、彰浩さんが5代目当主となり、毅さんとともに飯尾醸造に新しい風を吹き込んでいる。これから目指すこととは?

丹後を日本のサン・セバスチャンに

斉藤:飯尾醸造さんが大切にしていることは何ですか。

飯尾:うちが一番大事にしたいのはお客様、2番目が社員、3番目が原料を作ってくださる農家の方です。うちの酢を必要とするお客様に提供し続けることを大事に考えているので、会社を大きくすることは、まったく考えていません。必ずどこかで無理が出てきて、いまの品質を維持することが難しくなるでしょうからね。

斉藤:昨年夏には、地元にイタリアンレストランを開業したそうですね。

飯尾:息子が「宮津を食の町にして、全国のみならず世界からも来てもらおう」と、築120年の建物を買い取って改築したり、東京からシェフをスカウトしてきたりして開業しました。宮津は昭和29年当時の人口は3万6500人だったのですが、いまは1万8200人と約半分にまで減っていて、これをなんとかしたいという思いからです。スペインのサン・セバスチャンという人口18万人の街があるのですが、10 年かけて食の街になりました。いまはミシュランの星付きレストランが24軒あって、世界中の人が美味しいものを食べに来るんです。そんなふうに、地域活性化には「食」が大きな役割を果たします。丹後を2025年には日本のサン・セバスチャンにしようというのが息子の狙いなんです。

斉藤:丹後には美味しい食材がたくさんありますものね。

飯尾:海のものでは鳥貝や甘鯛が名産品ですし、うちの田んぼのあたりではシカやイノシシなどジビエもあります。有機栽培の野菜を作る農家も、京丹後市を含めてかなり多いんです。レストランは、あえて夜だけの営業にして、宮津のホテルや旅館に宿泊してもらいたいと思っています。最初はお店のスタッフもいなかったので、杜氏が酒造りのはじまる11月までサービス責任者だったり、たまたま調理師免許を持っていた副杜氏が料理人をしたり。うちの社員は、米づくりをしたり、レストランを手伝ったりと、酢屋に入社したのに、まさかと思っているでしょうね(笑)。

斉藤:米づくりも、酢を造ることも、レストランでサービスすることも、飯尾醸造さんの場合は、別々の仕事ではないような気がします。すべてが一つの仕事なんでしょうね。

飯尾:えぇ、米づくりもたいへんなこともありますが、喜びのほうが大きいようです。

斉藤:学生に向けて、ぜひ「働くこと」についてのお考えを教えていただきたいです。

飯尾:いままで生きてきた中で、自分がこれに向いているということが何かあると思います。それを人一倍努力して、極めていただきたいと思います。たとえ最初のうちはうまくいかなくても、やり続けること。すると、必ずいいことがありますから、粘り強く続けていくことだと思います。

斉藤:ありがとうございます。その言葉を大事にして、私も今日から早速、研究を頑張りたいと思います!

(佛大通信2018年5月号より)

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